Tenrikyo Kada Church
感謝と喜びの表れ
人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る。どんな理も受け取る中に、自由自在という理を聞き分け
(おさしづ 明治22・2・14)
自由自在は、何処にあると思うな。めん/\の心、常々に誠あるのが、自由自在という
(同 明治21・12・7)
即ち、身の内の自由がかなうのも、難儀不自由をかこつのも、銘々の心遣い一つによつて定まる。それを、心一つが我の理と教えられる。日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自らその態度や行為にあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる。
なんでもこれからひとすぢに
かみにもたれてゆきまする
やむほどつらいことハない
わしもこれからひのきしん
(みかぐらうた 3下り目7~8)
身上の患いをたすけて頂いた時、親神の守護が切実に身にしみる。病んだ日のことを思いかえし、健かな今日の日を思えば、心は言い知れぬ喜びに躍る。身上壮健に働ける幸福を、しみじみと悟れば、ひたすら親神にもたれて、思召のままにひのきしんに勇み立つ。
よくをわすれてひのきしん
これがだいゝちこえとなる(同 11下り目4)
ひのきしんに勇む心には、欲はない。この求めるところなく、ただ黙々と骨身惜しまず尽す行為こそ、やがて、銘々の生活に美わしい実を結ぶ肥となる。
(天理教教典 第八章『道すがら』より)
私たち人間は、親神様から身体をお借りし、日々絶えざる守護を頂いて生かされています。『ひのきしん』とは、そのご恩に感謝し溢れる喜びの心から表れてくる自発的な行為をいいます。
一般的には、寄進は「社寺などに金銭・物品を寄付すること」(「広辞苑」)を意味しますが、天理教では、身をもってする神恩報謝の行いを、親神様はひのきしん(日の寄進)としてお受け取りくださると教えられます。